« 小鹿田焼(おんたやき)は、大分県日田市 | メイン | 議会制民主主義 »

前漢の武帝の治世・紀元前115年頃に

前漢の武帝の治世・紀元前115年頃に、統治の初年に遡って「建元」という元号が創始されて以降、清まで用いられた。

武帝以前は王や皇帝の即位の年数によって、単に元年・二年とだけ数えられ、新しい王が即位すると改元されて再び元年から数えられる在位紀年法が用いられていた。治世途中での改元は文帝によるものが最初で、改元後は後元年・後二年(景帝は2度改元し、「中」「後」を用いた)とされた。武帝の時、「元」は祥瑞によって決めるべきで、即位の年を「建」、彗星出現の年を「光」、一角獣(麒麟)捕獲の年を「狩」とすることが献策された。これによって「建元」「元光」「元狩」といった元号が作られ、以後、このような漢字名を冠した元号を用いる紀年法が行われるようになった。

中国の元号は、中国王朝の冊封を受けた朝鮮・南詔・渤海・琉球などでもそのまま使われた(南詔・渤海は独自の元号も使用)。

明の太祖(朱元璋)は、皇帝の即位毎に改元する一世一元の制を制定した。これにより実質的に在位紀年法に戻ったといえるが、紀年数に元号(漢字名)が付されることが異なっている。また元号が皇帝の死後の通称となった。


フェスティバル
インテリアデザイン
インターネット電話
ボブスレー
織物
トライアスロン
法医学
フィギュア
悪性高熱症
予備校
影絵
恒星
野生動物
保険
物理化学
公務員
卓球
エレクトロニクス
スケートボード
エンジニアリング
1912年に辛亥革命によって清が倒れると元号は廃止された。各省政府は当初、革命派の黄帝紀元を用いていたが、これもまた帝王在位による紀年法であり、共和制に馴染まないという理由で、中華民国建国に際し、1912年を中華民国元年(略して民国元年)とする「中華民国暦」(民国紀元)が定められた。1916年に袁世凱が帝制(中華帝国)を布いた時には「洪憲」の元号を建てた。但し、清室優待条件によって宣統帝溥儀は紫禁城で従来通りの生活が保障されており、宮廷内部では「宣統」元号が引き続き使用されていた。このことが溥儀の「復辟(帝制復活)」への幻想を生んだ。

満州国が1932年に建国すると「大同」と建元し、1934年に溥儀が皇帝に即位すると「康徳」と改元され、1945年の滅亡まで続いた。中華人民共和国が中国大陸を制覇すると、「公元」という名称で西暦が採用された。

一方、中華民国(台湾)では中華民国暦が現在に至るまで用いられている。暦学的な厳密さを必要としない局面では、「民国」と表し、「宣統」の次の元号として扱われることが多い。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.bwkht.com/blog/mt-tb.cgi/1239

About

2009年06月10日 10:51に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「小鹿田焼(おんたやき)は、大分県日田市」です。

次の投稿は「 議会制民主主義」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.35