2009年06月26日

議会制民主主義

中華人民共和国やベトナム、シンガポールなど、周辺には未だに実質的な一党独裁制を敷き、言論の自由が極度に制限されている国家が多いが、中華民国においては李登輝元総統の就任後の1980年代後半より日本や大韓民国などと同様の議会制民主主義が施行され、現在は複数の政党が存在し、市町村の議会議員に至るまでが自由選挙によって選出されている。また、国民の結党や言論、宗教、思想などの自由は完全に保障されており、各種マスコミやインターネットなどを通じた様々な政治的な活動が自由に行われている。

また、中華民国の政治において特筆すべきことは、中華民国政府が中華人民共和国の中国共産党政府と同時に自らを「『中国』の正統な政府」であるとしている点である。これは、歴代の中華民国政府が、蒋介石率いる中国国民党が中国大陸を統治していた1947年に施行した『中華民国憲法』に基づいて政府を樹立していることに由来しており、1949年の毛沢東率いる中国共産党による、北京をその首都とする中華人民共和国設立は「反乱団体による非合法行為」としてきた。
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このような中華民国政府の主張は、中華民国が連合国の主な一員として参戦した第二次世界大戦前から国際的に受け入れられており、その結果、第二次世界大戦の戦勝国としての立場は中華民国政府にあった。また、当然ながら1945年10月の国際連合設立時とそれ以降における「中国」の代表権も中華民国政府にあった。しかし、1949年の中華人民共和国の設立以降も、香港問題を抱え中華人民共和国に対して政治的配慮を必要としていたイギリスを除く殆どの西側諸国が中華民国政府を「『中国』の正統な政府」として認めていたものの、第二次世界大戦以降の冷戦下におけるアメリカとソビエト連邦を中心とした東西両陣営の政治的駆け引きの中、1971年に国際連合で中国共産党率いる中華人民共和国が承認され、中華民国政府が国際連合から脱退してからは、日本やアメリカをはじめとする西側諸国においても中華民国政府を「『中国』の正統な政府」として承認する政府が減少した。

2009年06月10日

前漢の武帝の治世・紀元前115年頃に

前漢の武帝の治世・紀元前115年頃に、統治の初年に遡って「建元」という元号が創始されて以降、清まで用いられた。

武帝以前は王や皇帝の即位の年数によって、単に元年・二年とだけ数えられ、新しい王が即位すると改元されて再び元年から数えられる在位紀年法が用いられていた。治世途中での改元は文帝によるものが最初で、改元後は後元年・後二年(景帝は2度改元し、「中」「後」を用いた)とされた。武帝の時、「元」は祥瑞によって決めるべきで、即位の年を「建」、彗星出現の年を「光」、一角獣(麒麟)捕獲の年を「狩」とすることが献策された。これによって「建元」「元光」「元狩」といった元号が作られ、以後、このような漢字名を冠した元号を用いる紀年法が行われるようになった。

中国の元号は、中国王朝の冊封を受けた朝鮮・南詔・渤海・琉球などでもそのまま使われた(南詔・渤海は独自の元号も使用)。

明の太祖(朱元璋)は、皇帝の即位毎に改元する一世一元の制を制定した。これにより実質的に在位紀年法に戻ったといえるが、紀年数に元号(漢字名)が付されることが異なっている。また元号が皇帝の死後の通称となった。


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1912年に辛亥革命によって清が倒れると元号は廃止された。各省政府は当初、革命派の黄帝紀元を用いていたが、これもまた帝王在位による紀年法であり、共和制に馴染まないという理由で、中華民国建国に際し、1912年を中華民国元年(略して民国元年)とする「中華民国暦」(民国紀元)が定められた。1916年に袁世凱が帝制(中華帝国)を布いた時には「洪憲」の元号を建てた。但し、清室優待条件によって宣統帝溥儀は紫禁城で従来通りの生活が保障されており、宮廷内部では「宣統」元号が引き続き使用されていた。このことが溥儀の「復辟(帝制復活)」への幻想を生んだ。

満州国が1932年に建国すると「大同」と建元し、1934年に溥儀が皇帝に即位すると「康徳」と改元され、1945年の滅亡まで続いた。中華人民共和国が中国大陸を制覇すると、「公元」という名称で西暦が採用された。

一方、中華民国(台湾)では中華民国暦が現在に至るまで用いられている。暦学的な厳密さを必要としない局面では、「民国」と表し、「宣統」の次の元号として扱われることが多い。

2009年06月06日

小鹿田焼(おんたやき)は、大分県日田市

小鹿田焼(おんたやき)は、大分県日田市の山あい、皿山を中心とする小鹿田地区で焼かれる陶器。その陶芸技法が1995年(平成7年)に国の重要無形文化財として指定され、2008年3月には地区全体が「小鹿田焼の里」として重要文化的景観に選定されている。

小鹿田焼は、江戸時代中期の1705年(宝永2年)若しくは、1737年(元文2年)に、幕府直轄領(天領)であった日田の代官により領内の生活雑器の需要を賄うために興されたもので、福岡県の小石原から招かれた陶工の柳瀬三右衛門と日田郡大鶴村の黒木十兵衛によって始められた。元は、享和年間に小石原焼の分流の窯として開かれていたものであるという[1]。このため、小鹿田焼の技法には小石原焼と共通するものがある。

李朝系登り窯で、飛び鉋、刷毛目、櫛描きなどの道具を用いて刻まれた幾何学的紋様を特徴とする。また、釉薬の使い方には打ち掛け、流し掛けなどといった技法が用いられる。陶土を搗くための臼は「唐臼(からうす)」と呼ばれるもので、ししおどしのように受け皿に溜まった水が受け皿ごと落ちる反動によって陶土を挽いている。その音は「日本の音風景100選」の一つにも選ばれている。

民芸運動を提唱した柳宗悦が1931年(昭和6年)にこの地を訪れ、「日田の皿山」と題して評価する内容の一文を発表したこと、さらに、日本の陶芸界に大きく名を残したイギリスの陶芸家、バーナード・リーチも陶芸研究のため、1954年(昭和29年)、1964年(昭和39年)に滞在して作陶を行ったことにより、小鹿田焼は日本全国や海外にまで広く知られるようになった。
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小鹿田焼の窯元は代々長子相続で技術を伝え、弟子を取らなかったため、開窯以来の伝統的な技法がよく保存されており、これが重要無形文化財に指定された大きな理由となった。現在は10軒の窯元があるが、全てが開窯時から続く柳瀬家、黒木家、坂本家の子孫にあたる。窯元は、共同で土採りを行ったり、作品に個人銘を入れることを慎むなど、小鹿田焼の品質やイメージを守る取り組みを行っており、窯元によって構成される小鹿田焼技術保存会は重要無形文化財の保持団体に認定されている。

また、窯元がある皿山地区と棚田が広がる池ノ鶴地区が重要文化的景観に選定されている。

2009年04月23日

トゥール・ポワティエ間の戦い

トゥール・ポワティエ間の戦い(Bataille de Tours-Poitiers)とはイベリア半島を占領したイスラムのウマイヤ朝がフランク王国侵入を企み、732年にフランス西部のトゥールとポワティエの間でフランク王国と戦いイスラム側が敗れた戦い。

メロヴィング家が創設したフランク王国では、伝統的な均分相続制が取られていたため、王位継承のたびに国土が分割(3分割・4分割)された。こうして王権は弱体化していき、それに反比例して、王に仕える宮宰(王宮の人事・経済を管理する役職)の力が強まっていった。7世紀後半のフランク王国は、2国(西北のネウストリアと北東のアウストラシア)に分かれており、それぞれの宮宰が争っていた。アウストラシアの宮宰であったカロリング家のピピン2世が勝利して、実権を掌握した。この内紛に乗じて、イベリア半島の西ゴート王国を征服したウマイヤ朝のイスラム政権が、ピレネー山脈を越えてフランク王国内に侵入を始めたのである。とりわけ720年からは大規模な侵入が始まり、ブルグント地方を支配下に置いた。

山脈を越えて迫るイスラム軍
ウマイヤ朝のイベリア知事に就任したアブドゥル・ラフマーン・アル・ガーフィキーは、ピレネー山脈の西端を越えて北上し、アキテーヌ公を破ってボルドーを略奪し、破壊した後、軍を東に向けた。アル・ガーフィキーは、トゥールのサン・マルタン教会に莫大な財宝があることを知って、軍をロワール川流域に進めたのである。この知らせを受けたフランク王国の宮宰カール・マルテル(ピピン2世の子)は、事態の重大さを察知し、急遽軍勢を集めてパリからトゥールに急行した。

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トゥールに入ったところ、イスラム軍は到着していなかったため、南のポワティエに向かった。ポワティエの手前20kmの平原で両軍は遭遇し、ここに布陣して互いに相手方の様子を伺っていたが、1週間目の正午から前面衝突が始まった。正午、イスラム軍の騎兵隊が突撃を開始した。重装歩兵を中心とするフランク軍は、密集隊形を組み、前面に盾の壁をつくって防戦した。イスラム騎兵は突撃を繰り返したが、フランク軍の盾の壁はこれを支え続けた。この日、戦いは勝敗がつかず、日没で止んだ。フランク軍は当然、翌朝から再び激しい戦いが始まると予想していたが、朝靄が明けてみると、イスラム軍は多数の遺体を残したまま姿を消していた。アル・ガーフィキーの遺骸もあった。軍師を失ったイスラム軍は、夜中に南に総退却していたのである。

新しく生まれた「封建制度」
この思わぬ勝利で、カール・マルテルの声望は一気に上がった。しかし、相手に甚大な打撃を与えた勝利ではなかったし、イスラム軍の騎兵隊の威力を嫌というほど見せつけられた。マルテルは、騎兵隊の大増員を行ってイスラム軍の脅威に備えようとした。鐙(あぶみ)を知らなかったフランク騎兵が、優れたイスラム騎兵の馬の鐙を採用したのもこの戦いの後であった。また、マルテルは、騎兵に農民付きの土地を与えて忠実な直属騎兵隊を創設しようとした。全土の3分の1を占めていた教会領の没収を強行して、騎士に貸与(恩貸)したのである。このようにして、土地を貸与する(これを封土といった)ことによって臣下に服従(奉仕)させるという主従関係が、フランク王国の新しい支配の制度となっていった。これが封建制度である。カール・マルテルの子のピピン3世は、こうして教会の支持を得た。ピピン3世は751年、名ばかりのメロヴィング家の王を廃して、自ら王位に就いた。これに始まるのがカロリング朝である。

2009年04月22日

伝統を重視する姿勢

こうした時に登場してきたのがニーコンであり、彼はアヴァクームらと共に正教会の西欧化に危機感を抱き、正教会の伝統を守る意識を持っていた人物であった。だが1652年にニーコンがツァーリであるアレクセイの支持を受けて総主教に着座し教会の改革を始めた段階で、アヴァクームらの一派と分裂が生じた。

先述の通りこの時代、ロシア正教会では所有派が指導的立場にあったが、所有派は非常に形式を重んじる人々であり、形式主義は非常に深くロシア正教会に根を下ろして居た
先述の通りこの時代、ロシア正教会では所有派が指導的立場にあったが、所有派は非常に形式を重んじる人々であり、形式主義は非常に深くロシア正教会に根を下ろして居た

形式主義への偏重を中庸の状態に適正化させる事。およびロシア正教会の形式を、正教世界の中心たるロシアに相応しくギリシャに倣ったものとし、ギリシャの奉神礼・伝統・祈祷書を取り入れることで正教会世界の標準的地位をロシアに確立する事。以てカトリック教会への対抗とする。これらがニーコン改革によって目指された。

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なお誤解されることもあるので注意を要するが、ニーコン改革はロシア正教会を革新しようとしたのではなく、あくまでも(少なくとも改革者の主観的には)他教会と共通する正教会の伝統を確立しようとしたのみであって、伝統をいかに保持すべきかという問題意識についてはニーコンに賛成した側も、ニーコンに反対する側も、異なるところはなかった。西欧におけるカトリックとプロテスタントの間の相違ほどには両者には見解上の溝はなかったと言える。

だがそれでもニーコンによる改革は、ルーシから先祖代々、祈祷形式を護ってきた自負を持つ人々からの猛烈な反発を生み、反対者から致命者も出た。ツァーリの縁戚からも致命者が出たことにこの反対運動が広く起こっていたことが示されている。これらの改革に反発した人々は「分離派(ラスコーリニキ)」と呼ばれた。古儀式派とも言う。

後代、帝国の安定を期す帝権の思惑から「『分離派』という名称は差別的である」として、彼等に対して若干の配慮が示されるようになり、エカチェリーナ2世の時代から公文書においては「古儀式派」の名称を使用するようになった。現代においても「古儀式派」が、当事者に配慮した名称となっている。
当初は古儀式派に対する弾圧は人頭税を二倍払わせるなどの間接的手段に止まったが、次第に実力行使の面が増大。ニーコン総主教はツァーリの摂政という立場を活かし、古儀式派への実力行使を伴った弾圧を進めていった。古儀式派による集団焼身自殺といった熱狂的な抵抗運動はロシア全国各地でみられた。

分離派の主導者であった長司祭アヴァクームは、1682年に火刑に処された。

反対運動の背景には、当時、正教会世界にあって長時間立ったままで祈祷を行っていたのはロシア正教会のみであり、ロシアにやってきた外来の正教徒(特にオスマン・トルコ領内やポーランドといった異教徒の支配下にある正教徒)が長時間の起立姿勢に堪えられない姿などを目の当りにしていたロシア正教徒からすれば、「自らこそが正統の祈りを護っている」という意識が生まれても仕方なかったという事情もあった。

アヴァクームらの一派はその後、数々の分派を生みつつ「古儀式派」として存続していくことに成る。弾圧の程度に時期による濃淡はあったものの、ロシア帝国政府は基本的にこれを長い間認めなかったので、彼等はシベリアなどの辺境に逃れていくこととなった。

改革がこうした大規模な波乱を呼び起こした結果、ニーコン総主教の改革の方針は認められたものの、全国的に生じた混乱をツァーリ:アレクセイから指弾されたニーコン総主教は1666年に追放された。元々教権が俗権に優越することを主張して譲らなかったニーコン総主教とアクレセイ皇帝は、その基本的な立場からしてすでに差異が大きくなってきており、改革の是非云々は追放の口実に過ぎなかったという側面も指摘される。

正教会世界同士の交流が深まる中、明らかになってきた奉神礼や祈祷書の差異の是正は確かに必要不可欠であったのであり、ニーコン総主教による改革は不可避であったともいわれる。この時代に、ロシア正教会が現代に至るまで保持する奉神礼の骨格が出来上がっており、ロシア以外の正教会との差異は縮まった。だがニーコン総主教は性急に過ぎ、また暴力的に過ぎた。不可避とはいえ改革を強引に進めた結果生み出されたもの、それは大規模な分派である古儀式派であり、加えてツァーリによる総主教追放を招来したことによる、ロマノフ朝によるロシア正教会に対する統制の完成であった。

2009年04月05日

麻雀に関する文化

雀荘 [編集]
雀荘とは市中にある、料金を払って麻雀をプレイできる場のことである。正式には麻雀荘と呼ぶ。日本国内の雀荘は法律上風俗営業にあたるため、風俗営業法上開店には営業所ごとに当該営業所の所在地を管轄する都道府県公安委員会の許可を受けなければならない。また、同法により原則として午前0時から日出時までの営業は禁止されている。しかし現実にはフリー雀荘の多くで深夜営業が行われており、店はシャッターを下ろし音や光が外部に漏れないようにしてこっそりと営業されている。スラングでは「ナイト」「ナイター」などと呼ばれ、店によってはこの時間帯の入出店は出来ない(つまり、午前0時(午後12時)の時点で店内にいる客は日の出までは退場できない)場合がある。

営業の形式には、大きく分けて2種類ある。3人から4人あるいはそれ以上の人数で店舗に出向き、麻雀卓を借りる「セット」形式と1人で行って見知らぬ相手と対戦する「フリー」形式である。セット雀荘には「貸卓専門」、フリー雀荘には「お一人様でも遊べます」といった内容の看板などが掲げられており、それによって営業形態を察することができる。セット雀荘のほとんどは貸卓を専門としているが、フリー雀荘は貸卓営業を併行して行っていることが多い。遊技料は風営法により定められており、現在は客1人当たりの時間を基礎として計算する場合1時間630円(全自動卓)、1卓につき時間を基礎として計算する場合1時間2520円(全自動卓)を超えないこととなっている。よってフリー雀荘の多くは1回○○円となっているが、1時間換算で料金が上記を超える場合は違法である。個室を提供する(但し、完全な密室にしてはならないため各部屋は施錠できず、窓が設けられている)高級なセット雀荘や、黙認される上限ギリギリのレートで営業するフリー雀荘では上限いっぱいの料金を設定している。

徹夜マージャン(徹マン) [編集]
雀荘以外の場所では、麻雀が夜通しで行われることも多い。こうした麻雀は徹夜マージャン、もしくは略して徹マンと呼ばれる。

参加人数が4人しかいなければ、寝る事もままならず体力的にもかなりきつい。それでも大学生など若者を中心に、麻雀愛好家は徹夜マージャンを盛んに行う傾向にある。参加人数が5人以上であれば1人は競技に参加できない半荘が発生するため、抜け番の者は仮眠を取って次の半荘に備えることができる。

雀士 [編集]
雀士の資格・語義は一義的ではない。麻雀愛好家という程度の意味(麻雀子と同義)に解されることも多い。

プロ雀士 [編集]
競技麻雀のプロ団体は現在7団体あり、このいずれかに所属する選手をプロ雀士と呼ぶ。プロという用語を「プロフェッショナル」ではなく「プロパー」(生え抜き)の略として解釈する者もいる(五十嵐毅など)。ただし麻雀教室の開設や執筆活動、TV出演などといった、いわゆるプロ活動を行うためには実質的にいずれかの団体に所属する必要がある(プロ団体に所属のないフリープロも少ないながら存在するがフリープロで活動をするためには実績があり、かつ団体の名前がなくとも通用するほど著名でないとプロとして成り立たない)。またプロ活動においても、知名度などの点で雀士としてはアマチュアであるが別の観点からプロ活動を行っている著名人(芸能人や文筆家など)と競合することも多々ある。

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2009年03月21日

きたぐに (列車)

きたぐには、西日本旅客鉄道(JR西日本)が大阪駅?新潟駅間を東海道本線(米原駅回り)・北陸本線・信越本線経由で運転する夜行急行列車。

大阪・京都から北陸3県を経由して、新潟県内主要都市に停車、日本海側最大の都市である新潟までを結ぶ夜行列車である。関西圏?新潟間では直通交通手段が航空・高速バス以外に乏しく、これを補完する時間帯で運行されていることから、長距離を通して乗車する客も多く、休日前後や連休期間中は旅行者や帰省者などの利用が多い。多客期には「きたぐに」を補完する列車として、同じ大阪〜新潟間運行の臨時列車「ふるさと雷鳥」が運転される。

乗車券のほかには割安な急行券のみで長距離を利用できるため、時には自由席が非常に混みあう(繁忙期には全区間着席できない場合もある)。繁忙期には寝台・グリーン券の売り切れも生じる。

なお自由席は夜間も減光されない。

2008年11月現在、大阪・京都方面対北陸本線の特急料金または急行料金を必要とする列車では唯一米原駅経由で運転されている。但し、運賃・料金は、規定により湖西線経由で計算される。


地域輸送・区間輸送 [編集]
途中停車駅が多く、全区間に渡って運行時間帯の利便性も高いことから、始発・終着地付近での地域輸送・区間輸送も担っている。国鉄時代の長距離夜行急行列車のような多目的性を、21世紀に至っても維持している珍しい列車と言える。

大阪発の下り列車は、大阪口では彦根・米原・長浜方面への最終列車として通勤需要にも利用される。朝の新潟地域では、長岡で上越新幹線に接続し、北陸方面から上越新幹線上り列車に連絡する始発列車という位置づけもなされている。更に直江津で北越急行ほくほく線の始発、快速・越後湯沢行に接続しており、上越新幹線への乗換えには長岡経由・ほくほく線経由の2通りのルートが利用できる。
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下り列車はラッシュ時間帯に終着駅に到着するため、末端の新津から快速列車となり、新潟都市圏の通勤通学の足としても利用される。但し、新津・亀田から乗車できるのは普通車自由席4両のみ。グリーン車・寝台車には乗車できない。またこの間、普通車は全車禁煙となる。

上り・大阪行は下り上越新幹線から北陸方面への最終列車。東京発新潟行の最終「Maxとき353号」と長岡で接続する。また、新潟から長岡、柏崎等へ帰宅する通勤客の利用も多い。大阪に早朝到着できるため、北陸地方からの関西国際空港利用客にも早出の便として利用されている。

日本海縦貫線を通る寝台列車・夜行列車が新潟駅を経由しない中、新宿からの「ムーンライトえちご」と共に新潟駅を発着点とする数少ない列車である。

使用車両 [編集]
583系電車10両編成(多客期にはB寝台が2両増結されて12両編成)。2008年現在、583系電車が定期列車として運用に充当される唯一の列車である。

「きたぐに」編成図および座席種別説明
(2008年3月現行) A寝台:1両…開放式寝台。2009年現在、定期急行列車としては唯一の連結列車である。左の編成図ではAで表記。
B寝台:4両…2009年現在、定期列車として3段寝台車両が使用される唯一の列車である。左の編成図ではBで表記。
グリーン車:1両(指定席)左の編成図ではGで表記。
普通車
指定席:設定なし
自由席:4両左の編成図では自で表記。 編成組成
←大阪駅 新潟駅→
号車 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
禁煙・喫煙 × × × ○ ○ × × ○ × ×
座席種別 自 自 自 自 B G A B B B

記号凡例
×=禁煙車
○=喫煙車
下りの新津→新潟間、4号車は
禁煙となる。

2009年03月06日

奴隷制の擁護論と反対論

最も著名な奴隷制度廃止運動家であるウィリアム・ロイド・ガリソンは民主主義の成長を信じることで動機づけられていた。憲法には5分の3条項(第1条第2節第3目)や逃亡奴隷条項(第4条第2節第3項)があり、また大西洋奴隷貿易の20年間延長があったので、ガリソンは民衆の前で憲法の写しを焼き、憲法のことを「死との契約であり、地獄との同意だ」と言った[8]。1854年にガリソンは次のように言った。

“ 私はアメリカ独立宣言に述べられていることを信じる者である。そこには自明の真実の中でも「全ての人は平等に生まれている。全ての人はその創造主により不可分の権利を与えられている。その権利とは特に生存する権利、自由の権利および幸福を追求する権利である。」と謳われている。だから私は奴隷制度廃止運動家である。だから私はあらゆる形態の抑圧、特に人を物としてしまうことに憤りと嫌悪の念を持って向かわざるを得ない。[9] ”

この反対意見はアメリカ連合国副大統領になったアレクサンダー・スティーヴンズによってその「コーナーストーン演説」で表明された。

“ しかし、(トーマス・ジェファーソンの)考えは基本的に間違っている。その考えは人種の平等という仮定に立っている。これは誤りである。 ... 我々の新しい政府は全く反対の考えで設立された。その基盤と「礎石」は黒人が白人と同じでは無いという偉大な真実に依っている。奴隷制は優れた人種に従うということであり、自然で通常の状態である

「自由の土地」運動
1830年代と1840年代の改革者の仮説、趣旨、および文化的目的は1850年代の政治的および理論的混乱を予測させた。アイルランド人やドイツ人カトリック教徒の労働者階級が動きの元になって北部の多くのホイッグ党員を動かし、また民主党を動かした。自由黒人が増加することで白人労働者や農夫の労働機会が奪われるという恐れが強まり、北部の州の中には差別的な「黒人法」を採択するところがあった。
ナーゼ リズム チェリ ゲバラ 津田かぶ ハニカム ロジック ニーネ フィギ メートル ドニヒリズム チェーサー はこべ ジレン ジェミニ 次郎柿 ブリク テクノロ きない ニップレス ケイン そらの木 ギリソウ カレッ ヤルタ ミムルス 希望の橋 イメクラダ ブック ナチス ラーメ 幸福 ローボール かっさい シュリン オステ けたあみ バシリ ノニオ スイレ かめだ 西条柿 テント 小指 サイトミニ ばれいし デジパー ドライ マグネット バロメ

北西部では小作農が増加していたが、自由農民の数は依然として農業労働者や小作農の2倍であった。さらに工場生産の拡大は小規模の技能者や職人の経済的独立を脅かしていたものの、この地域の製造業は小さな町には大きくてもまだ小規模事業に集中していた。ほぼ間違いなく、社会的流動性は北部の都心部で始まったばかりであり、長い間暖められてきた労働機会、「正直な製造業」および「労苦」という考え方は、少なくとも自由労働の理論に尤もらしさを与える時期に近付いていた。

北部の田舎や小規模の町では、北部社会の絵姿(「自由労働」という考えで形作られていた)はかなりの程度現実味を帯びていた。交通手段や通信の発達によって、特に蒸気機関、鉄道およびテレグラフの導入で、南北戦争前の20年間、北西部の人口と経済が急速に成長していた。共和党の地盤となった小さな町や村は活発な成長のあらゆる兆候を示していた。アメリカの白人労働者は昇進の機会があり、自分の財産を所有でき、自分の労働を自己管理できる、そのような理想社会の考え方は小規模資本主義のものであった。多くの自由で土地を所有する者が、大平原では自由白人労働者の優位性を保証するために、黒人労働の仕組みや黒人開拓者(カリフォルニア州などでは中国人移民)が排除されるべきと要求した。

1847年のウィルモット条件に反対されたことで、「自由の土地」勢力を団結させることになった。翌年8月、バーンバーナーと呼ばれた急進的ニューヨーク民主党員、自由党員、および反奴隷制のホイッグ党員がニューヨーク州バッファローで会議を開き、自由土地党を結成した。この党は元大統領のマーティン・ヴァン・ビューレンとチャールズ・フランシス・アダムズ・シニアをそれぞれ大統領と副大統領候補とした。自由土地党はオレゴンやメキシコから得た領土のような奴隷制の無い領土に奴隷制を拡げることに反対した。

北部と南部の労働システムの基本的な違いに奴隷制における立場を関連づけ、この違いを特徴付ける文化と理論の役割を強調したのが、エリック・フォーナーの著書「自由の土地、自由労働、自由人」(1970年)であり、チャールズ・ベアード(1930年代の指導的歴史家)の経済決定論を凌ぐものであった。フォーナーは奴隷制に反対する北部にとって自由労働理論の重要性を強調し、奴隷制度廃止運動家の道徳的関心が北部では必ずしも支配的な感情ではなかったと指摘した。多くの北部人(リンカーンを含む)は、北部に黒人労働力が拡がって、自由白人労働者の立場を脅かす恐れがあったことにもよって奴隷制に反対した。この意味では、共和党員と奴隷制度廃止運動家は「自由労働」に広く関わることで北部の力強い感情に訴えることができた。「奴隷勢力」という考え方は、南部の黒人奴隷の誓約に基づく議論よりもはるかに北部の自己利益に訴える力があった。1830年代と1840年代の自由労働理論は北部社会の変化に依存していたのならば、それが政治に入ってくることは大衆民主主義の高揚に依存しており、翻って社会変化の高まりによって促進された。その機会は、長い間政党間党争を抑えてきた伝統的2大政党制の崩壊した1850年代半ばにやってきた。

2009年02月14日

とびでばいん

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主人公であるサクラが自機であり、それにオプションとしてルーンが付いている。ショットを駆使して敵を倒しながら進んでいき、各ステージの最後で登場するボスを倒すことでステージクリア。ライフ制であり、ライフがなくなるとミスになってアドベンチャーパートに戻される(シューティングモードの場合はゲームオーバーで、コンテニュー画面になる)。また、アドベンチャーモードでありクリア済みのステージであるならば好きなときにギブアップすることもできる。

ルーン
自機であるサクラが使用している空飛ぶ箒のオプションであり、自律行動ができないためサクラを追尾するように動く。敵の攻撃からは完全に無敵であり、さらに小さい敵弾は触れるだけで消滅させるため、盾として利用することが可能。後述するルーンショットやルーンボムにも用いられる。

なお、本来の名前は「宝珠(珠ちゃん)」(説明書では「秘聖球」)であり、ルーンというのはそれに登録され常にその上に乗っている少女の名前であるが、説明書や公式サイトなどでは「ルーン」と呼ばれている。

ショット
武器となるショットは「サクラショット」「ルーンショット」「ルーンボム」の3種に大別され、基本的には対応するボタンを押すことで撃つことができる。

サクラショット(通常ショット)
基本となるショットで、「ファイアー(ヴァーンレイド)」「ウィンド(ウィンドブラスト)」「サンダー(レイヴォルト)」の3種がある。これらは通常ショット切り替えボタンを押すことでいつでも切り替えられる。敵を倒すと時折現れる魔石をとると現在使用しているショットのパワーが上がっていき、ショットの威力や攻撃範囲などが上昇していく。

ファイアー
前方に炎の弾を撃つ。連射が可能で威力も中程度。パワーアップしていくと前方の弾の威力が上がり、さらに後方や斜めにも同時に弾を撃つ。
サンダー
前方に一直線に伸びるビームを撃つ。威力は低いが敵を貫通して攻撃できる。また、追加弾として貫通力の無い雷の弾がその周りを廻りながら進む。パワーアップしていくとビームが太くなると共に追加弾も高威力になっていく。
ウィンド
後方から敵を追尾する楔状の弾を撃つ。連射はできないが威力が高く、敵に当たるとスプレッド(炸裂)してしばらくその場にいる敵にダメージを与え続ける。また、追加弾として前方に直進する風の玉を撃つが、こちらも連射性能は良くない代わりに高威力。パワーアップしていくと数発ならば連射できるようになると共に追加弾もさらに高威力になっていく。

ルーンショット
オプションであるルーンを使用した特殊な攻撃。

ルーンショットボタンを押し続けることで、ルーンがサクラの前方に待機するとともにチャージのゲージが溜まっていく。チャージしている間は通常ショットを撃つことができない。このときに得点アイテムをとると溜まりが早くなる。
ボタンを離すとルーンを前方に射出する。通常ショットが効きづらい敵にも大ダメージを与えることがあるが、その攻撃力はチャージした時間とは無関係。
射出したルーンが耐久力のある敵にぶつかると、そこで停止してマジカルリングと呼ばれるフィールド(魔法陣)を周囲に展開する。マジカルリングは時間と共に半径を広げ、その内部にいる敵全てにダメージを与え続ける。このとき、チャージしてあったゲージが減少していく。
ゲージが尽きる、サクラがダメージを受ける、ルーンのいる場所に敵がいなくなるのいずれかでマジカルリングの展開は終了。サクラのいる場所に戻ってくる。

ルーンボム
ボムを消費してルーンから周囲に無数の弾を発射する。同時に敵弾と弱い敵が全て消滅する。

ルーンショットによりルーンが離れた場所にいても使用することができる。
ルーンショットを使うたびにMPゲージが溜まっていく。これが最大まで溜まるごとにボムが一つ補充される。最大で9つまでストックできる。

コンボ
敵を倒と得点が入ると共にコンボが1加算される。このコンボが繋がって大きくなるほど敵を倒したときの得点が大きくなっていく。

コンボは画面下のコンボメーターが0になるまでに次の敵を倒せば成立する。コンボメーターは敵を倒すごとに最大にまで戻り、コンボ数が大きくなるほど減りが速くなる。
コンボメーターはアイテムを取ることで回復させられる。また、敵に通常ショットやルーンショットを当てたり、敵弾をルーンに当てて消滅させることでも回復する。

アイテム
敵を倒すとアイテムが出現する。敵ごと(敵の種類ごとではない)に出すアイテムが決まっており、難易度が高くなるとポーションを出す敵が少なくなる。

寿司
多くの敵はこのアイテムを出す。得点が加算され、コンボメーターが回復し、チャージ中ならばチャージの溜まりを早くする。ネタによって大きさが違い、それによって効果の大きさも違う。
お宝
寿司の強化版だが出す敵は少ない。
ポーション
体力が1回復しコンボメーターが全快。あまり出ない。
魔石
使用中のサクラショットがパワーアップしてコンボメーターが全快。大きめの敵や連続して複数出てくる敵の最後が出すことが多い。ステージが進むと出にくくなる。
シールド
敵の弾を3回だけ防ぐシールドを張りコンボメーターが全快。あまり出ないが、ポーションよりは多い。

2009年01月27日

サンダーセプター

XF-91はアメリカ合衆国のリパブリック社がアメリカ空軍向けに開発していた混合動力戦闘機。愛称はサンダーセプター(Thunderceptor)。1949年に初飛行したが、制式採用はなされなかった。
天の浮橋 ワインレッド ルバーブ 優しい響き マナー スピネル うむら タルブロク ドライブ ドマリエ スペツナズ シルク ダンネージ タイフーン かきょう ストリ 薪の音 次世代 スコア ロッジ まいこ ギャンブ リプリン リマーク しまやま フィト マリッジ ラニン オダマキ ジンバク ステップ フリー ストック ムッシュー かまど シンボリ トルクア ブルネイ メクチュ ライト ノッブ ソンブ 道のつづき ミノス マキシム データ ラチア ビンゴ シャド マキザサ

第二次世界大戦後にアメリカ空軍は高速の戦闘機を求め、リパブリック社にロケットエンジンを補助に用いる混合動力のジェット戦闘機の開発を求めた。リパブリック社はそれに応えて、F-84サンダージェットを改良し、胴体末尾にロケットエンジンを増備し、主翼を後退翼にした機体・XF-91を開発した。

ロケットエンジンは、ジェットエンジン排気口の上部に垂直方向に二基直列配置で、排気口の下部にも垂直方向に二基直列配置、計4基装備した。主翼は後退角が付けられ、翼の付け根より翼端の方が幅広の逆テーパー翼となっている。翼の厚さも翼端の方が厚い。これは翼端失速を防ぐために考案されたが、構造的には不利であった。

初飛行は1949年5月9日。ロケットエンジンの搭載は遅れ、ロケットエンジンを用いた初飛行は、1952年12月9日となった。ロケットエンジンは水平飛行での音速突破に成功するなど、速度面では有効なものであった。このまま制式採用がなされれば、世界初の実用超音速戦闘機となったはずである。

2機の試作機が製造された。初期形態は通常形式の尾翼に機首インテイクを持つものであったが、後にV字尾翼への改修やレドームの装備、インテイク位置の主翼付け根への変更など様々な試験が行われた。しかし、アメリカ空軍はより高性能な迎撃機の開発を行うことを決定し、本機の採用は行われなかった。世界初の実用超音速戦闘機となったのは、本機のわずか半年後にジェットエンジンのみで水平飛行で音速を突破した、F-100戦闘機であった。

全長:13.18m
全幅:9.52m
全高:5.51m
自重:6.4t
エンジン:J47-GE-17 ターボジェットエンジン(推力 3.4t)1基、XLR11RM-9ロケットエンジン(推力 0.68t)4基
乗員:1名
武装:20mm機関銃 4門、ロケット弾など

XF-90は、アメリカ空軍の試作戦闘機。製造はロッキード社。1949年に初飛行したものの、制式採用はされず2機が試作のみに終わった。

1940年代に、アメリカ空軍は爆撃機を護衛する長距離戦闘機の必要性を認識していた。戦闘機はジェット化の時代になりつつあったが、初期のジェット機は燃料消費率が高く、航続距離が短いという欠点を持っていた。まず、XP-81やXP-83が試作されたが、1944年から1945年にかけて初飛行した。しかし、それらは性能不十分のため、不採用となった。

1946年にアメリカ陸軍航空隊は長距離戦闘機の試作をマクドネル社とロッキード社に依頼することとなった。これは、「侵攻戦闘機計画(penetration fighter)」と呼称され、1,500マイル(2,400km)の行動半径を持ち、限定的ながらも地上攻撃が可能で、15,000ポンド以下の重量の機体という要求であった。なお、行動半径の要求は後に900マイル(1,400km)に引き下げられた。マクドネル社はこれに対し、XP-88を製造し、ロッキード社はXF-90を製造した。

発注は、1946年6月20日にXP-90として行われた。設計当初はデルタ翼機の検討も行われたものの、それは放棄され、流線型のフォルムを持つ後退翼機となった。なお、名称は1948年6月11日にXF-90に変更されている。

機体は、低翼配置・後退翼を持っており、後退角は35度である。水平尾翼は垂直尾翼の中ほどに取り付けられている。垂直尾翼の後退角は可変取り付け方式により変化させることができた。コックピットは涙滴型であり、主翼端に増槽の取り付けができた。エンジンは双発であり、胴体側面から吸気し、胴体末端に排気口を持つ。エンジンは当初ウエスチングハウス社製J34-WE-11(推力:1,361kg)が用いられ、後にアフターバーナー付のJ34-WE-15(推力:1,905kg)に換装された。J34-WE-15を装備したものはXF-90Aと呼称され、1950年5月20日に初飛行した。

XF-90は、強度を保つために新しいアルミ合金を使用していた。この合金のために強度は十分であったものの、重量が大幅に増加している。このことにより、エンジンの推力不足とあいまって、XF-90は鈍速の機体となってしまった。

1949年6月3日に初飛行し、1950年9月まで飛行試験が続けられた。しかし、空軍は1950年8月の時点で競作機のXF-88の方が優秀であるという判断を下しており、採用はされなかった。その後、2機の試作機は、それぞれ1952年の核実験や1953年の強度試験に用いられ、破壊された。

本機に始まるF-90番台の戦闘機は、F-80よりの発展型であるF-94を例外として、ことごとく超音速戦闘機を目指して果たせず、不採用に終わっている。ようやくF-100によって音速突破に成功し、F-100番台は「センチュリーシリーズ」として輝かしい実績を残した。F-90番台はセンチュリーシリーズへと発展する踏み台となったと言える。例えばF-90を設計したケリー・ジョンソンはこの失敗を教訓とし、次に軽量戦闘機であるF-104を設計し、アメリカ空軍ではふるわなかったものの、NATO諸国や日本でも採用されるベストセラー機として、一応の成功を収めた。

(XF-90A)
全長:17.11m
全幅:12.19m
全高:4.8m
自重:8.2t
エンジン:ウエスチングハウスJ34-WE-15(推力:1,905kg)2基
最大速度:1,107km/h
乗員:1名
武装:20mm機銃6門(予定)